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無名の老人と文豪の共通点は? [長く生きてりゃ・・・]

2か月ぶりに電車に乗りました。

絵筆と顔彩を買うためです。

帰りに新装後の市川市役所を初めて覗きました。

市役所とは思えぬ広々としたロビーに驚きです。

市長専用シャワー室の建設が問題になっているせいか

大勢の人が集まっていました。

ここで思いがけない人に出会いました。

永井荷風先生1.jpg

身長180cm位、晴れていても、コウモリ傘を持って歩く紳士です。


若いかたはご存じないかもしれませんが・・・・答えは続きに・・。

◆◆◆
この人の名は小説家・永井荷風先生です。

まだ生きているわけではありません。

わたしが高校一年生の時、一人寂しくなくなりました。

したがって、これは等身大の蝋人形です。

昭和21年から亡くなるまでの14年間市川市に住んでいました。

かれの代表的作品「断腸亭日乗」を読むとわが家のすぐ近くまで

何度も散歩されていたことがわかります。

いまから半世紀前、

自分がものした散文で永井先生にちょっとだけ触れています。

無名の老人と文豪の共通点はともに変人?


★SS荷風の住まい近辺.jpg

船橋(ふなばし)西部譚(ウェスタン) その3

 富谷宏三老人のこと

JR西船橋駅の南口がストリップ劇場の殿堂「西船OS劇場※」への出口ならば、北口には何が?・・・そう、優るとも劣らない、こちらはギャンブルの殿堂、中山競馬場への出口である。

駅前の国道を挟んで真北に向かう道は、そのむかし無線通りと呼んだ。第二次大戦真珠湾攻撃の暗号「ニイタカヤマニノボレ」の電波が発せられた無線塔※への道だったからだ。京成電車の踏切を渡るとゆるい坂道がはじまる。「花源」という花屋を少しすぎた左側に葛飾小学校があって、この近くに富谷宏三(仮名)の家はあった。

「英君、この爺様を市川市の固定資産税課に案内してやってくれ」

 富谷老人との出会いは、時の船橋市長候補で千葉県議の藤川八郎(仮名)が、私設秘書(自分※)への指示から始まった。指示を受ける前から気になってはいた。なぜならこの老人が選挙事務所に入って来たときから鼻を突き刺すような異臭が漂い、困っていたからだ。

  歳は優に80を越えた老人で、ぼろぼろの衣服をまとい、ズボンの前チャックは恥ずかしげもなくぱっくりと開いたまま。しかもパンツをはいていないとみえて一物が見え隠れしている。腰のベルトはスイカを下げて運ぶときに用いる紙の網紐を巻きつけているだけ。顔は面長で坊主頭。顔中が深い皺に覆われていて、目ヤニが片目を塞いでいる。晩年の浮世絵師葛飾北斎のような顔立ちであった。かの北斎にもなぞめいた話が多いが、この男の正体はいったい何者だろう。

 事務所に入ってきたとき、「センセ(先生)に話があんだよ。戻って来んまで待たせてもらうべ」と言ったあと、事務所の片隅で長い時間、杖代わりの竹の棒を抱え込むようにして居眠りをしつづけていた。まさかこの自分が爺さんの案内役を命じられるとは、思ってもいなかった。

 市川に向かう車中は、吐き気がするほどのすえた臭いが充満する。和菓子屋の前を通過しようとしたときだ。

「ちょっと、あんちゃん、止めろよ」蚊の鳴くような声で老人は言った。

「なぜ?」

「知んねのかよ、ここの饅頭はうめえんだ、ウイッヒッヒ」

2、3本しかない歯をむきだして不気味に笑った。さらに

「役所(へ)行くにやあ、手ぶらじゃ行けめえ」

といって、首から垂らした紐付きの財布を腹巻から取り出し、大福を10個ほど買った。おいしそうな大福も、売り子の手から老人の手に渡った瞬間、腐ってしまったような錯覚を覚えた。老人はこれを大事そうに持っていた新聞紙に包んだ。

 市川市役所に着く。庁舎に入るや否や職員らの視線を一身に浴びた。無理もない。スーツ姿の青年と、乞食と見まごう老人が、嗚咽するような臭いを発散しながら入ってきたのだから・・・。

 机の並び順からいうと、係長ぐらいの吏員が応対に出た。

「富谷さん、また来たんか? 今日は何しに? 息子さんまで連れて・・・」

じょ、冗談じゃない。私はこういう方に頼まれて運転手として案内してきただけです、と言って、県議のメモ入り名刺を渡した。老人もすかさず、新聞紙の包みを「みんなで食いせよ」と小声で差し出した。

運転手は会話に加わってはいけない。一歩下がって待った。吏員と老人は、公図の写しをひろげてなにやら話し始めた。

「富谷さんの嗅覚はすごいもんだねえ、またかい。これで何件めかな、今度はほうれん草と葱ねえ・・・」

「おらにはな、阿弥陀様がついてるだよ」

「財産は冥土にはもっていけないよ」

「だあれえ、人間はみーんな、欲の固まりだべじよう」

聞き耳を立てていたわけではないので、漏れてくる会話の意味が掴めない。嗅覚、財産、ほうれん草に葱、阿弥陀様、どう推理しても話がつながらない。

こんなことがあった後、市内を車で移動しているとき車窓からたびたび富谷老人を見かけるようになった。それまでは出会っていても目に入らなかっただけかもしれない。その姿は見慣れると遠くからでもわかった。

なぜなら、かれはいつもリヤカーに不要になったダンボールを山のように積んで、これを自転車で牽引しながらゆっくりと歩いているからだ。時には、リヤカーをとめて、昼日中というのに道路わきで寝ていたり、深夜、海神の陸橋をリヤカーを引いて渡る姿を見たこともある。千葉銀行船橋支店のカウンター前の椅子で寝ている姿も何度か目撃した。

選挙事務所にもたびたびやってきては20代の女性事務員を捕まえ、

「姉ちゃん、おれと、温泉行くべよ。」

「金はあんから、しんぺえすんな」

と同じことをしつこく迫って、事務所の雰囲気を台無しにした。県議は、何でこんな爺さんを大切にするんだろう。好奇心は膨らんだ。

養鶏場や牛舎に働く者は、その場の臭いが麻痺してしまうように、何度も老人と会ううち、いつしかこちらの嗅覚もおかしくなったある日、日頃の疑問を一気にぶつけてみた。

「富谷さん、あなたの職業は?」

「百姓だ」

「何で、いつもダンボール運んでるの?」

「他人が捨てん物でも売れば金になんべ」

「このまえ、市川市役所へ何しに行ったの?」

「一緒に行ったのに、わかってねかったのか、あんちゃん、ありゃな」

ニヤっと笑ってから

「二俣(市川市)の元農業用水路跡でよ、レンソ(ほうれん草)や葱作って10年以上経ったかんよ、早くいえば俺の土地になったってことよ。俺の土地になんば、固定資産税がかかんべよ。」

この老人、見かけと違って、したたかであることを知った。民法では確かに他人の土地でも永く耕作していれば耕作権が発生し、安く払い下げてもらえることを知っていたのである。

「なぜ、たびたび銀行で寝てるの?」

「理由は簡単だあな、あそこは、冷房効いてて涼しいべ、それからよお」

一呼吸してから声音を変えて言う。

「あそこに居りゃよ~、俺の金ふんだくりに来たとき、すぐにわかんべよ」

「えっ、誰が奪いに来るの?」

「おれのせがれだあな」

「何で、息子さんが?・・・」

「おめ(え)は、信用できそうだかん、教えるがな、俺のせがれはよ、孫に俺とおんなじ名めえ付けやがって、こっそり俺の預金を盗ろうとしてんだ」

「ホントーッ?」

「ホントのこった、おれの印鑑、勝手に作りやがって、もうちっとで、ごまかされちゃうとこだったのさ、だかん、おれは、肌身離さず実印と通帳、こうやって持ってんだよ」

と、初めて腹巻のなかのものを見せてくれた。ビックリ仰天、見せびらかすように開いた預金通帳には、なんと1億円ちかくの残高があったのである。もう、とっくに財産分与しても良い年齢なのに、この老人は相続しようとしないため、財産をめぐり親子が骨肉の争いをしていることがまもなくわかった。

晩年の永井荷風は、隣市市川の菅野に住み、本八幡から西船橋界隈によく足を伸ばしたことが、かれの日記『断腸亭日乗』に記されている。この荷風が79歳で亡くなったとき、預金通帳には今の金額にして1億6、7千万円の残高があったという。荷風が散歩の途中発見した蜀山人の揮毫による名勝“葛羅の井”の石碑は富谷老人の家のすぐ裏手である。この二人が生前オケラ街道※のどこかで出会って、お金の大切さをしみじみと語り合ったのかもしれない。

それから3、4年して富谷宏三翁は街から姿を消した。たずね聞くところによれば、市内中から集めたごみの山の中で寝起きしていたため炊事時にコンロの火でボヤを起こして、やけどを負い、まもなく亡くなったという。しかし、同じ土地の同じ家に、今も多分同じ名の「富谷宏三」は生きている。[サッカー]

<注釈>

※西船OS劇場:この文を起こしたころはありましたが、現在はありません。OSとは大阪式ストリップの略。

※無線塔:大正4年「船橋海軍無線電信所」として開設。昭和4年に高さ60~100mの鉄塔10基、同16年には大無線塔(182m)6基が建設された。敗戦後は米軍に接収され23年間「米極東軍通信基地」として利用された。子供のころは小学5年までにこの大無線塔の鉄梯子を登りきれないと仲間外れになった。ほぼ垂直の梯子を登りきると天辺は4畳半くらいあって、たえず揺れ動いていた。登っている最中、米軍に見つかって留置された友人もいる。今は跡形もない。

※私設秘書(自分):政治に無関心なわたしだったが、義父が県議の選挙責任者だったため、頼まれて2か月ほど手伝いをした。半世紀前の話だが実に滑稽な体験だった。投票直前、県議の品性と見識の無さに腹が立ち「あなたは首長の器ではない、幻滅した」と啖呵を切って手伝いを辞めた。(このことについては後日、機会があったら掲載してみたい)

※ オケラ街道:名勝「葛羅の井」がある道。この名の由来は、競馬の掛けに負けスカンピン=オケラになってバスにも乗れない人がトボトボ西船駅まで歩く道だからである。歩くだけならいいが、沿道の民家は、ゲン担ぎの下着泥棒の被害にも遭うから、たまったものではない。

  

 

 


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コメント 8

谷津冨

凄い体験ですね。親水公園で同じ歳のルンペンとも話をしますが、人生  人それぞれですね・・・。

by 谷津冨 (2021-03-06 07:58) 

夏炉冬扇

蝋人形でしたか。
執筆依頼きますよ。★★★★★
永井荷風の1日を週刊新潮の写真入りページで見たのを記憶しています。
by 夏炉冬扇 (2021-03-06 08:23) 

きよたん

永井荷風先生 自由に生きた人なので
亡くなった時も幸せだったんだろうなと思いましたが・・


by きよたん (2021-03-06 20:56) 

YUTAじい

おはようございます。
ご心配ありがとうございます。
参りました( ´艸`)
by YUTAじい (2021-03-07 06:52) 

Jetstream

数奇な体験と逸話ですね。西船と云えば、中山競馬場。オケラになりましたが、バス代くらいは残しておきました。(笑) 私も昔のことがフラッシュバックする年になってしまいました。
by Jetstream (2021-03-08 13:39) 

JUNKO

蝋人形だったのですか。知らずに突然出会うと驚きますね。
by JUNKO (2021-03-08 21:22) 

ぼんぼちぼちぼち

荷風先生、このレプリカのお写真見て、すぐに解りやした。
まあ、苦しまずに逝かれたようで、お幸せな最期だったのではないでやしょうか?
それにしても、そんなに貯金があったのでやすね。
文士は売れているようでも、実際の収入は意外と少なかったりするのに、、、
by ぼんぼちぼちぼち (2021-03-08 21:22) 

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あなたは何者? 文筆家? 画家?
by お名前(必須) (2021-03-13 07:55) 

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