SSブログ

その1、拾われて70年  [長く生きてりゃ・・・]

旅の職人シリーズは、面白いとの評価をいただき、ありがとうございました。

なかには「もっと続けて!」とのメールをいただきましたが、

しばし封印して、今日から新ジャンル、その日その日の心象を語ってみます。

まずはわたしの出自から・・・。

CIMG4825.JPG

橋の下?

この橋が暗示するもの・・・・・

よろしかったら続きをお読みください。

 

 

                      拾われて70年

 
 60年前(1953年)の3月30日、東京都墨田区の賛育会病院で出生直後に取り違えられた男性Aさん(60)が、病院を訴え勝訴。11月27日に都内で記者会見を行なった。
 親の愛は双方同じであったようだが、それぞれの家庭に貧富の差があってAさんの人生には苦労が多かったようだ。取り違えの代償が3,200万円。今後、実母の遺産もAさんに渡るようではあるが、金銭には換えられないあまりにも悲しいはなしだ。

このニュースを見て、他人事でない、取り違えではないが自身にも気になることがあった。幼いころ悪さをすると決まって母はわたしに言った。
「おまえは橋の下から拾ってきた子だから、橋の下に捨てに行こうかね」と。
 兄弟姉妹のなかで一番不真面目だし、容姿が他の4人となんとなく違う。
子供ながらに考えた。考えるほどに、なにかおかしい。近くに橋が架かるほどの大きな川はない。もの心ついてより自分の住むところはずっと千葉県船橋市。その名の由来は、海に小舟を横つなぎに並べて橋としたからこの名が付いた。したがって橋の下は海である。おれは魚か? バカ貝(アオヤギ)か?
母に向かって言った。
「橋の下じゃなくて、裏の竹藪じゃないの?」
「それじゃ、おまえは、かぐや太郎か? 馬鹿言ってんじゃないよ」
「じゃあ、どこの橋? ここから遠いの? 捨てに行かなくとも自分で行くよ」
…などと悪態をついたものだ。

 そのうちわが家から3キロ先に小さな川「海老川」があることに気がついた。遠い昔、木曽川の上流・大桃(だいとう=桃の産地)から、どんぶらこ、どんぶらこと流れてきた大きな桃から生まれたのは、ご存じ桃太郎。のちのち可児川の鬼退治をして偉く名をはせた。が、ここ船橋には桃畑などない。海老川の源流地域は、当市名産の梨畑がいくつかあるから梨が流れ着くことはあり得る。
もしや、自分は梨から生まれた梨太郎かとも考えた。(余談だがご当地の梨から生まれた緩キャラ「ふなっしー」は、桃太郎に負けぬほど全国デビューし活躍している)

 なぜ親は、子供に「橋の下で拾った」などというのだろうか。橋の上だってよさそうなものなのに・・・。そこで、絵を画くのが好きだったわたしは橋の上に置かれた自分と、橋の下に置かれた自分を描いて考えた。結論は、やはり橋の下だと分かった。赤子を捨てる側の立場になって考えれば明快である。橋の上に置いてきたら雨や雪が降った場合、体温低下であっという間に死んでしまう。真夏ならドライりんごのように干からびてしまう。わが子を捨てるには雨風のしのげるところに捨てるのが腹を痛めた母親のせめてもの人情であろう。

 大人になってもこのことが心の片隅に残っていたせいか、橋の下の河原と赤子の関係をことあるごとに調べてみた。すると意外にも中世では、貴族の子供であっても7歳未満で亡くなった児、あるいはもう助からないほど弱った児は、山や河原に手作りの袋に入れて捨てていたことが分かった。(出典:990年『小右記』=藤原実資の日記、1077年『水左記』=源俊房の日記、1207年『仲資王記』=仲資王の日記)。
 なぜ葬式を行わず捨てたかというと、幼児の霊魂について次のような観念があったからだ。
幼児の体内に宿った魂は大人とは違いちょっとしたことで肉体から遊離する。そしてすぐ別の体に転移してまたこの世に生まれ変わることができる。この移り気な霊魂が落ちつきをみせるのは、7歳を過ぎて童子になってからだという考えがあった。つまり7歳に達しない幼児は民間信仰でいう「7歳までは神のうち」で、人間扱いされていなかったのである。
幼児の死は一時的なものだから、その霊魂は成仏させてはならない。葬儀を行い成仏させてしまって(この世と縁を切ってしまうこと)は、甦ることができないのである。生まれ変わりを熱望するから葬式は出さないということなのだ。

 これらは大昔のことと思っていたら、この考え方はなんと第二次大戦前まで日本各地に残っていたことを知る。その証として、古い墓地を注意深く見て歩くと大人と違うところに埋められていたり、墓標を立てずに土饅頭ですましていたりする。

 他人事ではない。わが家も江戸時代初期からつづく墓石が14,5基あるが幼児の名が刻まれた墓石はひとつもない。わたしと次兄との年の差は5つ。その間に、三男・則行が生まれている。だが赤子のうちに亡くなっているからか墓標がない。末っ子のわたしは兄や姉たちに「おまえはわが家の付録、グリコのおまけみたいなもの」などと揶揄されたことが幾度とある。だが、この観念からいえばそれはまちがいで則行兄の命(霊魂)がわたしの体を媒介に甦っているのだと思わざるを得ない。だからであろうか、友人から「話し方、せっかちな行動、頭の回転、いつも2倍速」などと言われている。

 話が前後するが10世紀ころより京の都で死者は、鴨川の東河畔、現在の東山区に当たる鳥辺野(とりべの)と右京区の化野(あだしの)に捨てられていた。この屍を河原で処理葬送したのが非人、河原者、乞食(こつじき)と呼ばれる人たちだった。河原は、歴史的に見ると暗いイメージがつきまとうところだ。
 このあたりから橋の下や河原で拾ってきたという子供脅しのことばが生まれたのではないかと考える。

 幸か不幸か、晩年の親父の顔に近ごろとてもよく似てきたと親戚筋からいわれる。自分でもそう見えるところをみると、幼き頃の母の話は嘘で、わたしには資産家の生みの親がほかにいないようである。[サッカー]

 

※次回は、間を開けず投稿します。オリンピックが近づいたので「聖火」にまつわる話を書きます。 


タグ:わが出自
nice!(54)  コメント(4)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

nice! 54

コメント 4

beny

 昔は橋下さんが多かったようで。

by beny (2013-12-06 21:12) 

koh925

わが家の子供たちも、時々「橋の下で拾われた子」と冗談を言います
私がそのように言い育てたことを、今は楽しんでいるようです
by koh925 (2013-12-07 09:07) 

谷津ひろし

私の母からもよく言われました。場所は橋の下か? 草むらか 畦道か・・・忘れました。 私は満州吉林省・満鉄病院で生まれました。

 人の世、出生の秘密も色々有るのでしょうね・・・・。

幼児7歳までに亡くなっても、又 生まれ変わって甦れるとは、その子を亡くした親にとっては悲しみをマギラセられるし・・・。いい考えですね。

 私も最近、近所の人や親戚の人から父親に似てきたとよく言われます。

 

by 谷津ひろし (2013-12-08 07:33) 

Chobi.H.YAOITA

観光旅行でインドのガンジス川に行ったとき、天寿を全うした人は輪廻が終わるので火葬にするが、若くして死んだ人は川に流して輪廻を待つのだと聞いたことがあります
by Chobi.H.YAOITA (2013-12-08 13:46) 

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

Facebook コメント

トラックバック 0