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港区ぶらぶら散歩‐きみちゃんの周辺 [長く生きてりゃ・・・]

前回に引き続き東京都港区内をあてもなく歩きました。

そこで「きみちゃん」に再会しました。

きょうは、きみちゃんについて、思いのたけ(?)を記します。

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港区ぶらぶら散歩―きみちゃんの周辺

 今日は、新橋の慈恵医大で定期検診を受けた。診察終了後、行き先を定めない都内散策を始める。
 西新橋3丁目から、愛宕山のトンネルをくぐり、ホテル・オークラ、スペイン大使館、スエーデン大使館、ビジネスマンの昼休みでごったがえす泉ガーデンとテラス、六本木6丁目、東洋英和女子学園と休まずに歩いた。このあたりまで来ると都心とは思えぬほど人が少ない。行き交うのは高級外車ぐらいだ。

 旧川崎ハウス中庭をちょっと覗いてから鳥居坂を下って麻布十番商店街に出た。ここで昼食。
食後「パティオ十番」で久しぶりにきみちゃんと再会する。数年前、近くの善福寺に福沢諭吉夫妻の墓を訪ねたとき以来である。

 今日もきみちゃんは何も語らない。かわいい姿で道行く人を眺めていた。
きみちゃんは童謡『赤い靴』のモデルとなった実在の少女である。『赤い靴』は、1922年(大正11年)野口雨情作詞・本居長世作曲で発表された。
[るんるん]赤い靴(くつ) はいてた 女の子
異人(いじん)さんに つれられて 行っちゃった

[るんるん]横浜の 埠頭(はとば)から 汽船(ふね)に乗って
異人さんに つれられて 行っちゃった

[るんるん]今では 青い目に なっちゃって
異人さんの お国に いるんだろう

[るんるん]赤い靴 見るたび 考える
異人さんに 逢(あ)うたび 考える

 発表はされなかったが草稿には、つぎの五番もあった。
[るんるん]生まれた 日本が 恋しくば
青い海眺めて ゐるんだらう(いるんだろう) 
異人さんに たのんで 帰って来(こ)

 島原鉄道元社長宮﨑康平(一章)作詞作曲の『島原の子守唄』を連想させるちょっと悲しい歌である。
 雨情はこの詩を書く前、少女の母親かよさんから「わたしの娘は3歳の時に、家庭の事情からアメリカ人宣教師に養女としてもらわれて行った。いまはアメリカで幸せに暮らしている」と聞いた話をもとにしている。が、事実は海を渡らず麻布長坂町(いまの稲荷神社)にあった鳥居坂教会の孤児院で明治44年、9才で亡くなっている。母親はそのことを知らないまま一生を終えた。

 このような経緯から薄幸の少女を偲んで麻布十番の人たちがきみちゃんの記念像をグリーンベルトの一角に建てた。
 「赤い靴の少女像」は静岡の日本平、横浜の山下公園、小樽など全国にある。が、ここのきみちゃん像は、頭部がブロンズ、胴体は赤御影石でできている。
 

 

 なぜ養子に出されたのか、かよさんと雨情との関係は? 本当の名は? 家に帰ってから調べてみる。すると次のようなことが分かった。

①出生は明治35年静岡市。
②岩崎かよの私生児として生まれた。
③きみちゃんは2才のとき、かよの義父佐野安吉の養女となる
④青山墓地の記録から、明治44年孤児院で亡くなっている。

 このほか複雑な裏事情がみえてきた。先に記した経緯は、昭和53年北海道TVが製作した『ドキュメント・赤い靴はいてた女の子』というドキュメンタリー番組が元になっている。この番組を担当した記者菊池寛は翌年『赤い靴をはいていた女の子』というノンフィクション小説を現代評論社から上梓した。この内容が世間の定説となっている。

 しかし、昭和61年になって作家阿井渉介が『捏像 はいてなかった赤い靴 定説はこうして作られた』(徳間書店発刊)で、「定説」には根拠がないと反論。

 ①宣教師ときみちゃんとの接点がない。宣教師は養女をもらっていない。
 ②実父は佐野安吉、と菊池は書いているがこれは私生児を便宜上祖父の戸籍に入れたと考えるべきだ。
 ③菊地本では「雨情は、宣教師の養女になったきみのことを、かよから聞いて詩にした」とするが、かよが雨情夫妻と言葉をかわす機会はそう多くなかったはずで、自分が結婚前に私生児を産んだと進んで告白するとも思えない。
 と反論している。 

  自分の疑問のひとつだった雨情と、かよの接点はつぎのようなものだった。
 

 雨情は、社会主義詩人である。一方、かよは、北海道に渡って鈴木志郎と結婚する。夫妻は、当時社会主義運動の一環として注目されていた平民農場で開拓民となった。しかし挫折して夫志郎は、札幌市の新聞社に就職。ここで働いていた雨情と出会っている。つまり職場の同僚の妻から聞いたはなしを詩にしたというわけだ。つじつまは合う。
 

 しかし、祖父は人を介してきみちゃんを孤児院に入れたが、かよには真実を伝えなかった。どうもこれが本当らしい。

 雨情の息子存彌は、「童謡『赤い靴』を含む雨情の童謡に特定の個人を謳ったものはない」ないと否定している。その一方で孫の不二子は正反対の意見を述べている。

 このほか、永六輔がラジオ番組で野口不二子に聞いた話として、この詩は隠喩で「社会主義運動の挫折を詩にしたもの。赤はソ連のことで社会主義がどこかへ行っちゃったと謳っている」とした。このことはのちに不二子が「永に話したことなどない」と言い、いろいろな人から永六輔は総スカンをくっていることも分かった。
 なにはともあれきみちゃんの知らないところで外野がワイワイ騒いでいる実態が見えてきた。
 一つの童謡にこんなエピソードがあることを知って驚かされた一日である。
  

 恥ずかしい話だが、この歌詞を長い間、聞きまちがえていた。幼い時、この童謡は性能の悪いラジオから流れていたためか、自身のそそっかしさからか? 原因はわからない。正しい歌詞を知ったのはごく最近である。
きみちゃんを連れて行ったのは「異人さん」ではなく「爺爺さん」に連れていかれたんだと真面目に思っていたのだ。このことについて子供のころ友人と言い争ったこともある。友は「爺爺さんじゃない、リリーさんだ!」と言い張った。「じゃ、女の子を連れ去った女は横浜のパンパンか?」「爺さんだから女衒(ぜげん)だってば」などと・・・・。

 仕事先のインドネシアやシンガポールで「からゆきさん」の墓を見るたびに童謡「赤い靴」を思い出していた。他人に言えない赤っ恥である。長く生きてりゃ恥多し・・・・[サッカー]

 


タグ:紀行文
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コメント 2

koh925

私も、次回にアップする記事で
きみちゃんのことを少し紹介しています
貧しい時代の犠牲者ですね
by koh925 (2014-01-27 11:24) 

Chobi.H.YAOITA

爺爺さんも間違いですが
リリーさんも大間違いですね!(^O^)
by Chobi.H.YAOITA (2014-01-28 09:15) 

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