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民俗学の祖の周辺  [長く生きてりゃ・・・]

前々回のブログの「付録」として掲載しましたわが子を絞め殺している

「間引き」の絵馬に出会った時の日記が出てきました。

なぜこんなのが! と驚いたことを思い出しました。

その後というより昨年末に不思議な「二股塔婆」を農村地帯で見つけたのがきっかけで

先週千葉市内の川沿いの農村地帯を歩いてみたところ、また新たなことがわかりました。

昔ながらの食品を扱う店先に4人の老婆(いづれも80過ぎ)が

世間話をしていたので「子安講」について尋ねたときです。

思いがけない答えが返ってきました。

きょうは、少し古い日記と、先週老婆から聞いた話を載せます。

相変わらず拙い日記ですが、ご興味がありましたら 続きを読む をクリックしてください。

SS満願寺の口減らしの図.jpg

クリックして拡大しますと障子に角の生えた鬼の蔭が見えます。

また右手上部の剥げ落ちた部分には、涙を流すお地蔵様が描かれてあったそうです。

 

 

 

柳田國男の少年期とその周辺 

 日本民俗学の祖・柳田國男が少年時代に過ごした茨城県利根町布川の「小川家」跡地を訪ねた。久慈川へのアユ釣りの往還に小さな看板を見つけ、前々から気になっていた所だ。
そこは、千葉県側から利根川に架かる栄橋を渡るとすぐ下り坂となるが、これを下りきらないところを右折して300メートルも行かない静かな住宅街の一角にあった。
暖かな陽気に桜の花は散り、代わってハナミズキの花が「こんどはわたしの出番よ」といった感じで咲き始めていた。

 資料館は、小川家の「離れ」を復元した家屋と、その裏にある古い土蔵(資料展示)からなっている。だれもいない敷地は、鶯の声以外に、音が無い。
かれが14、5歳のときに読みふけったという小川家の土蔵の中で、わたしは誰に気兼ねすることもなくじっくりと陳列品を鑑賞する。 
 
 柳田國男は、松岡家、男8人兄弟の6番目として生まれた。明治20年(1887年)13歳のとき、親元を離れ、弟2人を引き連れて汽船、電車、人力車を乗り継いで、生まれ故郷の兵庫県から長兄・松岡鼎(かなえ)が住んでいたこの地にやってきた。医師であった長兄が小川家に請われてこの地で医院を開業していたためだ。

 学校に行かず、弟や近所の友人と3年間過ごした場所がここ布川の地なのである。小川家の土蔵にあった「利根川図志」をはじめとする沢山の書籍を自由に読めたことや、敷地内に屋敷神として祀ってあった祠の石の扉をいたずらで開けたとき、不思議な体験をしたことがきっかけで、後の遠野物語のような民俗学に傾倒していったらしい。

 遠野物語で思い出すことがある。いまから30数年前のことだ。毎日新聞の「遠野」の連載記事を読み、この地方に伝わる昔話を語るという「深雪婆さん」に会いたくなって東北本線の急行列車に乗った。

 夕刻、零下13度の吹雪き舞う遠野の駅に降りたときの光景が忘れられない。薄暗い駅舎の中は、音の無い世界であった。人の動きも無い。人間がそこにいないわけではない。4、5人いるのだが、凍てつく寒さに、誰一人身動きせず、ベンチに座りじっと上り列車を待っている姿に驚いた。顔が見えない。年寄りなのか、若者なのかの区別がつかない。なぜなら、みな一様に厚手の風呂敷のような布(カクマキ)で顔をすっぽりと覆っているからである。日が暮れてからの深雪婆さんの家を探すのは、むずかしかった。道を尋ねようにもどの家も軒先は雪囲いしてあり、人の気配が無い。家もまばらである。家の軒先に藁で吊るした四角い餅のようなものが吹雪きに揺れている。
やっとの思いで、南部曲がり家に一人で住む深雪婆さん宅に着いた。

 「さみーなか、よー来んさった、炬燵にへーれ」と歓迎してくれた。がらんとした茅葺の家の中はじつに寒々としていたが、老婆のもてなしのこころは暖かであった。薄暗い神棚には「オシラさま」が2体飾ってあった。婆さんの「はなし」はよどみなく続いたが、方言がきつくて6割がたしか理解できなかった。
 

 遠野物語の話題になると「柳田センセ(先生)もなもし、キゼンさんがいねば、あんな有名にゃなんねかった」と何度も言った。キゼンさんとはこの地出身の佐々木喜善氏のことで、明治40年 柳田國男に遠野地方のふしぎな信仰と昔話を語った人だ。日本民俗学の祖・柳田國男がこの人と出会わなければ、たしかに「遠野物語」は生まれていなかった。

 

 わたしがここ小川家跡地にいた時間は、およそ1時間だったが誰一人ここを訪れる者がいなかった。説明文を読むと、医者をしていた実兄の末裔はいまも利根川の川向う千葉県側の布佐で開業医をしていることを知った。
徳満寺本殿CIMG6105.JPGつぎに小川家跡を去り車で2,3分戻った利根川の土手近くにある真言宗豊山派の徳満寺に立ち寄る。ここには、めったに見られぬ「間引き絵馬」があるからだ。

 目当ての絵馬は客殿廊下に懸かっていた。一遍が30~40センチ四方ある大きな絵馬だ。
その絵はすこし色あせてはいるが彩色された昔の絵馬で、身震いするような図柄だった。生まれたばかりの嬰児を母親が畳の上で押し殺している姿なのである。その母親の影が障子に映っているのだが、角が生えた鬼の姿に描かれている。

 享保の大飢饉や天明の大飢饉でこの一帯の農村は、多くの餓死者が出て荒廃した。このため、当時多く行われていた間引きの悪習を無くす願いを込めて奉納した絵馬なのである。この間引きの風習は明治のころまで続いていたらしい。
この絵馬を、少年柳田國男も見ている。強い衝撃を受け、のちの民俗学を志すきっかけになっている。
その裏付となる資料を以下に添付する。
                                                 2008年4月15日

[資料]

【柳田國男著・『故郷70年』より】― 

『約2年間を過した利根川べりの生活で、私の印象に最も強く残っているのは、あの河畔に地蔵堂があり、誰が奉納したものであろうか、堂の正面右手に1枚の彩色された絵馬が掛けてあったことである。その図柄は、産褥の女が鉢巻を締めて生まれたばかりの嬰児を押さえつけているという悲惨なものであった。障子にその女の影絵が映り、それには角が生えている。その傍に地蔵様が立って泣いているというその意味を、私は子供心に理解し、寒いような心になったことを今も憶えている。』

 上記は6年前の日記であるが、先週千葉の川沿いを歩いていたとき85才をすぎた老婆たちから直接聞いた話に唖然とした。差し障りがあるので聞き取りした場所は差し控えるがじつに驚いた。
 子安講について質問しているときだった。老婆の一人は言う。
 「わたしら若い時分は、子供を産むのは、みな自宅だったから、逆子なんか生まれりゃ、無事に取り出せず死産することもあった。だから子安講で神頼みしたのさ。子安講は、若い嫁たちの出産育児の情報交換だけでなく息抜きの場でもあったんだ」
 「この地区で、今はやってないんですか?」
 「そりゃそうよ、今はみな産婦人科で産む時代じゃねえか。必要あんめえ」 ここまでは別に驚く話ではなかったのだが・・・・。

 利根川CIMG6107.JPGこのあと、利根町の絵馬の話をしたところ、
 「な~に珍しいことじゃあんめ。この辺だって昔はよお、双子が生まれりゃ、そのうちのひとりはこのめえ(前)の川に捨ててらしいよ」。
 黙って聞いていたもう一人の婆さんは
 「だ~れ、川じゃなくとも、竹山なんかに埋めたもんさ」とこともなげに言う。婆さん自身はしたことがないと否定したが、とてもリアルで時代も近い。

  老婆たちの会話を反芻しながらの帰り道、突然まったく忘れていた幼き頃の記憶がよみがえってきた。「竹山のなかに・・・」がキーワードだった。じつはそれらしきものを自身もこの目で見ていたという記憶である。

 小学生の低学年だったころ、自分は純農村地帯で過ごした。親は教育者だったが遊ぶ仲間のほとんどは農家の子供たちだった。一日中外で遊ぶ毎日である。ある日、友達と長芋(自然薯)堀に出かけた。野生の長芋堀は、まずその蔓を探し、その下をそれ用のスコップ(金属ヘラのついた竹棒)で掘る。

 雑木林につづく竹林に入ったとき、先に来た誰かが長芋を掘って残土を埋めなおしたような盛り土を見つけた。その土盛りにスコップを突き刺したところ、ふわっとしたものにぶつかった。宝物かもしれないぞ!と掘り返したとき、見てはならないものを見てしまった。座布団くらいの大きさの綿入れの袋状の入れ物の中に、真っ赤な血に染まった塊を見つけたのである。友人とともに腰を抜かした。今思えば、あれも間引きされた赤子の屍だったのだろうか?  長く生きているといろんなことがあるもんだ。

 ※ 歴史学は、時の為政者側からみた記録である。庶民の側に立った記録は少ない。これを補ってくれるのが庶民の風習や祭礼、聖絵などのなかに過去を探る民俗学である。ここが面白い。今月も南房総の山寺と2つの博物館、ひとつの美術館を見て回った。わたしの遊行の旅は、まだまだ終わらない。[サッカー]

 

 


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