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童謡「証城寺の狸ばやし」誕生の真相 [長く生きてりゃ・・・]

1月24日のブログでわたしは童謡「赤い靴」のモデルとなった実在の

女の子きみちゃんとその周辺について書きました。

この歌詞を書いた作詞家・野口雨情の心境について直接関係のない人たちが

いろんなことを言っていることも記しました。

たかがと言っては失礼ですが、

ひとつの童謡にもこれほど人々を騒がす影響力があることに驚きました。

この「『赤い靴』が発表された3年後の大正14年、

「証城寺の狸ばやし」が野口雨情作詞、中山晋平作曲で世に発表されました。

このたび偶然、雨情が「証城寺の狸ばやし」を作詞したときの心境を

語った文章を古い本の中から見つけました。

これは先の『赤い靴』に対する永六輔の推論と違い、雨情ご本人が語った実録です。

いきさつを知ってびっくりです!

SS★駅前の逆さ狸.jpg

逆さ狸

本当は「[るんるん]しょ しょ 証城寺・・・」ではなく、「[るんるん]ちょ ちょ 長楽寺・・・」となるはずだったようです。

地元の人でさえ知らないこの事実。

モデルとなったお寺「長楽寺」は、気の毒だなあ と感じました。

きょうはその記事の確認のため千葉県木更津市に旅した日の日記です。

★SS木更津案内板2.jpg

右クリックしますと画面が大きくなります

       童謡 「証城寺の狸ばやし」誕生の真相

[るんるん]しょ しょ 証城寺 証城寺の庭は つ つ 月夜だ みんな出て 来い来い来い・・・
 
 童謡「証城寺の狸ばやし」は、千葉県木更津市の證誠寺に伝わる「狸の伝説」に想を得たもので1925年(大正14年)に発表された。作詞は野口雨情、作曲は中山晋平である。発表後一世紀ちかく経った今も愛唱されている日本を代表する童謡のひとつだ。
 
 

 童謡とは広義には子供向けの歌をさすが、わらべ歌や唱歌とはちがう。わらべ歌は、自然童謡・伝承童謡であり、唱歌は明治時代に教育のために国家が主導して作られた歌だった。

 大正時代に入り唱歌に飽き足らない文学者や詩人たちが「子供たちの美しい空想や純な情緒を傷つけないで、優しく育むような歌と曲」を与えようと立ち上がって作られた子供のための文学が創作童謡、文学童謡といわれる「童謡」であった。名付け親は運動の提唱者・鈴木三重吉である。余談だがかの有名な童謡「かなりや」※が発表されるまでは童謡には曲がついていなかった。
 

 さて自分は千葉県人ゆえ、陸路や海路(セーリング)でこの證誠寺のある木更津市へは過去何度も行っている。もちろんこの寺にも立ち寄っている。しかし、この童謡について合点がいかないことがふたつあった。
 

SS證誠寺本堂.jpg ①この寺の名は、浄土真宗本願寺派の「證誠寺」という。しかし、音は同じだが曲名は「証城寺」になっている。なぜ?
 ②所在地は、港に近く江戸時代は舟運で栄えた街(富士見町)である。またここは明治の初め※木更津県の県庁があった近くで昔からかなりにぎわいのある街中。狸が出そうな寺ではない。現在に至っても北隣はきらびやかなネオン輝くラブホテルである。また南側は矢那川が流れていて、狸穴などあるわけがない。また月夜に狸が踊るには境内が狭すぎる。どうしてこんな発想が出てくるのか?
 
 

 上記の疑問を心の片隅に残しながら月日が流れた。ちかごろ、この疑問を解決すべく、インターネットで検索してみたがはっきりしない。検索ではむしろ※わたしと同じ疑問を持つ人が多いことが分かった。木更津市役所の職員に尋ねてみてもわからないという。

SS野口雨情1.jpg ところが先月、たまたま開いた赤茶けた一冊の古書(といっても昭和47年発行だが・・)を読んで「えーっ、そうだったのか!」と長年の疑問を一気に解決する文章にでくわした。これは画期的なニュースでは! と、ひとり興奮する。

 本の名は―地方記者ばなし―「房総千一夜」。著者は、故三井良尚氏。自身も日本音楽著作権協会員や日本歌謡芸術協会顧問を歴任したひとで、東京日日新聞の地方記者として木更津に赴任していたころ、学生時代から懇意にしていた野口雨情を太田山公園(当時は「恋の森」)に案内した時に雨情本人から直接作詞のいきさつを聞いていたのである。その時の会話は、三井氏が山頂で木更津(きさらづ)の語源が※君不去(きみさらず)から転化したもの・・・などと話したあと、(以下は、原文のまま記す。)

<・・・雨情先生は後ろの山を指して「あそこに藁葺の山寺が見えヤンしょ、あの山寺がわたしの証城寺の狸ばやしの童謡を作ったお寺でンすよ。あのお寺の名前が判らないので、証城寺としたのですが、その証城寺のお寺の字もはっきりしなかったので、お城の「城」の字を書いてしまったのでヤンす。あの山寺は狸でも住んでいそうな、ほら穴がありヤンしてな―――」と語った。>
                     ( ・・・中略・・・ )
<・・・雨情先生が発想した山寺は、木更津駅から東へ2キロ、真言宗豊山派「長楽寺」という寺で、鎌倉期の開山、藁葺の屋根を改築したのが昭和49年。もう古い山寺の印象は無いが、證誠寺には見られない奥深く静かな境内と、鬱蒼と繁る裏山のたたずまいは、往時は狸が棲んでいたであろう思いを、わたしも印象深くした。もしも雨情さんがこの長楽寺の寺名を覚えていて、長楽寺の月明の夜と、狸とを結びつけて作詞したならば、さもありなんと、誰でも納得がいくというものだ。・・・・>

 これを読んで、生来の好奇心に火が付いた。早速現場検証の旅に出かけてみた。木更津駅から東南東に2キロほど歩くと国道16号線に出る。ここを横断するとすぐ前方にこんもりとした丘状の森があって、そのなかに長楽寺はあった。SS長楽寺の駐車場3.jpg SS長楽寺の本堂.jpg證誠寺と比べものにならない大きな寺だった。

 緑に囲まれた寺は、本堂の他、大師堂、池、墓地、広い駐車場などが整然と配置され1万坪もある。そしてどこもきれいに清掃された美しい寺である。
 参拝客の気配はなかったが、かわいい子狸のような少年が無心に草取りをしている。
「こんにちは」とあいさつをして、お寺のかたですか?と問うと、「ここで働いている者です」と応える。
さっそく要件に入った。ここに狸穴みたいな洞穴がありますか?と。かれは一瞬首を傾げた後、これかなあ、と宿坊近くの崖の下にわたしを案内してくれた。それが下に掲示した写真である。狸が住むには絶好の穴に見えた。

SS狸穴1.jpgなかを覗くと、甕のようなものが埋まっている。狸が飲み干した酒甕か?
 つぎに「ご住職さんはきょういらっしゃいますかね?」と問うと、あ、いますよ、といって住まいの玄関まで案内してくれた。敷居をまたぐと上がり框の奥に弥勒菩薩のような女性が立っているではないか! 緊張する。要件を告げると物静かに答えた。
「童謡のことは先代から聞いたことがありますが詳しくは存じません。でも戦前からあるほら穴をご案内しましょう」と小雨降るなかを傘も差さずに少し離れた物置小屋の裏にある崖下まで案内してくださった。

SS戦前からの狸穴2.jpg それが左の写真である。「戦争中は防空壕として使うため拡張しました」と指差す穴は、崖の上から崩れた砂で入り口は半分埋まっている。たしかに狸が棲むには大きすぎる。道々の会話でこの女性がご住職であることを知ってまたびっくりである。緊張して、わたしは他宗の寺のことや、自家も真言宗豊山派の檀家であるにもかかわらず、「うちは智山派です」などとしゃべってしまう始末である。するとかの女はじつに冷静。「もういちどゆっくり話してくれませんか?」と言う。しまった!いつもの癖が・・・。緊張すると早口になってしまう己の欠点を恥じた。
 ご住職は最後に「この穴は奥が深く、どこまでも続いていると先代から聞いております」とおっしゃった。童謡「証城寺の狸ばやし」も、この穴のように奥の深い味わいがあった。

小雨が本降りになった帰路、

 [るんるん]ちょ ちょ 長楽寺 長楽寺の庭は つ つ 月夜だ みんなこのこと知ってるかい・・・と唄いながら駅に向かった。

[るんるん]忘れしゃんすな 長楽寺 こちら本家の狸穴 

[サッカー]

[※の意訳]
 童謡「かなりや」:
作詩は西條八十、作曲は成田為三で、曲のついた童謡として1919年(大正8年)雑誌『赤い鳥』5月号で初めて発表された。

木更津県庁:房総半島に初めてできた県は、明治4年木更津県と印旛県だった。その2年後二つの県が合併して千葉県ができた。その県庁所在地が證誠寺から南に500mくらいのところの貝淵町3丁目にあった。

私と同じ疑問を感じた人のブログ
童謡で知られているので証城寺を訪ねたが、意外と小ぢじんまりしていたのには驚きだった。沢山の狸が飛び回るのにはやや狭いのではないかと思いつつ、近くに山や森などもなくどこから来たのかと周りを見渡してしまった。今は街中ながら静かな佇まいだが、その昔は違ったのかも知れないと思いながら狸塚などを廻った。

君不去(きみさらず):
 木更津(きさらづ)の語源といわれるもので、
  倭建命(やまとたけるのみこと)が東征の折、三浦半島走水辺りから房総半島に渡ろうとした際、海が荒れて渡れそうになかった。そこで愛妃・弟橘姫(おとたちばなひめ)が「さねさし 相模の小野に 燃ゆる火の 火中に立ちて 問いし君はも」 現代訳:相模の野原の 燃え盛る火のなかで、御身の危険も顧みずにわたしの身を案じて 声の枯れるほど呼び続け探してくれた命(みこと)のお心を思えば、なんの惜しいい生命でありましょう。命(みこと)のために少しでもお役にたてば嬉しゅうございます。>と詠んで走水(はしりみず)の海に身を投げて荒海を沈めた。これで命は木更津あたりに上陸することができた。
 東征の帰途、ふたたびこの地に立ち寄った折、恋の森の丘(現在の太田山公園)から海を眺め、妃の死を悼み悲しみ、去りがたい思いで「君不去(きみさらず)」と叫びつづけた。ここから転化してこの地が木更津となったという説がある。

※次回は、雪国に旅したレポートを記します。

備考:後日證誠寺の狸まつりレポートを下記URLで紹介してみました。ご覧ください。

「しっぽの無い狸」

記事URL:eee-141tec.blog.so-net.ne.jp/2014-10-27


タグ:小旅行
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谷津ひろし

おはようございます。
 わらべ歌 唱歌 童謡の区別 理解す ありがとう。
42年前に発刊された赤茶けた本は何処から出て来ましたか? 当時 買ったが 読んでなかったのですね・・・。 
長楽寺のご住職さんも、この話を聞かれ 大変喜ばれた事でしょう。 一方 証誠寺のご住職さんが この話を聞かれたら どう思うことでしょう。 事実はお伝えせねば・・・・。 どうされます・・・。 以前 証誠寺には何度か行きました、今度は長楽寺(証城寺)に行きたいと思います。 貴兄の探究心 行動力 は凄いです。木更津県、印旛県が有ったのですね。
 色々 いい話をありがとうございました。 
by 谷津ひろし (2014-02-12 06:57) 

Chobi.H.YAOITA

すごい発見ですね!
私もたぬき穴見たいです^^
「王子の狐」の狐穴とか、ああいうの好きなんです♪
それにしても、雨情先生、けっこう適当な方ですよね(^^;)
♪波浮の港は夕焼け小焼け・・・
そう思っていたら波浮港は大島の東側
夕焼けは見えませんでした(^^;)
もう、私、童謡は信じません!(笑)
by Chobi.H.YAOITA (2014-02-12 23:30) 

yoko-minato

動揺の起源を調べるといろいろと
分かって面白いものですね。
この歌はよく歌っていましたよね。
雨情さんの歌碑は三浦にもあったと
思います。
by yoko-minato (2014-02-13 08:10) 

ナツパパ

思いもかけぬ話ってあるんですねえ。
長楽寺さん、ちょっとかわいそう。
...ただ、歌うときは、しょうじょうじ、のほうが
リズムがいいような感じがしますねえ。
by ナツパパ (2014-02-14 15:05) 

beny

 改めて表題から感動いたしました。御訪問有難うございました。
by beny (2014-02-14 19:24) 

sig

こんばんは。
お話も面白いですが、わざわざ取材に出向かれる熱意には頭が下がります。
by sig (2014-02-15 21:19) 

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