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NO.24 旅の職人 その⑩ 添乗員の今昔 [人生とは死ぬまでの暇つぶし?]

先般10月12日のブログで添乗員の歴史に触れましたが、
きょうは添乗員の今昔物語ならぬ今昔実話です。

北方四島を案内しようとした猿添乗員に怒る客の兎.jpg
風刺画 
北方四島ツアー
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                                         旅行添乗員の今昔
 
 自分が入社した旅行会社は、私鉄最大手の系列会社である。のちに上場会社になったが、入社当時はまだ規模が小さかった。そのため、国鉄(JR)や私鉄の団体乗車券は発券できるのだが、個札の割り当てがない。したがって、団体扱いにならない少人数のグループ旅行や得意先のVIPからの切符購入要請には、駆け出しの新人が発売日の前日、あるいは当日の早朝から最寄りの駅の出札口に並ぶのである。こんな時代であった。 
 

 添乗員教育は、職人の修行みたいなもので、先輩社員に同行して覚えてゆく。しかし、わたしのスタートは初めからひとりだった。行き先は八丈島で2泊3日の旅。ヘロンとダブという名の15人乗り双発機2機の分乗で総員30人の団体だった。行ったことなどもちろんない。大先輩は、わたしにこう言った。「人手が足りない。添乗員のやり方は、お客さんから教えてもらえ」だった。
 飛行機に乗るのも初めて、部屋割り、宴会、支払、観光地への案内、すべてツアーの幹事から教わった。しかし、若さとはいいものである。下町の大人たちは苦情ひとつ言わず、「初々しいね」とか言いながら新人を温かく迎えてくれて助かった。しかし、その三日間はほとんど寝なかったことを覚えている。
 

 社に教育マニュアルがまだ整備されていなかったため、先輩社員の教え方はみなスタンドプレーである。見て学べ! とはいうが、なかには反面教師もいた。Kという所長代理の場合、「こんな社員にはなりたくない」という点で学びがあった。   
 九州旅行に同行したときだ。福岡板付空港に到着後、バス1台分のわが団体は、貸し切りバスで博多駅に向かった後、特急列車で別府駅に向かった。ところがこのとき、座席指定券が取れていたのは約半数で、残りの20人ちかくは自由席。混み合っていたため別府まで立ってゆかねばならなかった。     指導教官役のKは、「こんな時はな、座っている一般乗客に『どこで降りますか?』とひとりずつ訊いて、降りる駅がわかったら、その駅に着く前にうちのお客さんを誘導し、降りると同時に座らせろ」と命令した。
 大混雑で車内を移動するのにもやっとのなかで、指示通り一般乗客に訊いて回った。なかには「このやろう、どこで降りようが俺の勝手だろ!」と一喝する乗客もいて閉口する。
1時間後なんとか10人くらいは座らせることができた。これを報告しようとKを探したが、どこかへ消えている。そこで隣の車両まで探しに行ったところKはちゃっかり座席に坐って週刊誌を読んでいた。顧客そっちのけである。宿に着いてからも、お客さんを置いてさっさと夜の温泉街に消え、翌日朝帰りする始末。のちにこの人は所員全員に嫌われていることがわかった。いわゆるヒラメ人間である。

 宴会の司会進行などのやり方は、超ベテランの所長代理Sさんから学んだ。この人には温かい血が流れていて、そのごのひとり立ちに大いに役立った。      
 宴会の終わったあとの大広間は、女中さんたちが膳の後片付けで大忙し。そんななかで舞台にわたしを立たせ、あいさつの仕方、芸の見せ方、歌い方を伝授してくれた。舞台の下から「声が小さい!」「目線は一番奥の上席を見つめて話せ!」 「ハイ、やり直し!」など徹底的に教えてくれた。 

 Sさんの芸はプロ級だった。得意の出しものは、朝鮮民謡「アリラン」の踊りだった。丸いお盆の裏側にお椀を載せ、これを丹前の紐で頭に結わえて帽子とする。お膳に載せられた焼き海苔を細長く切って髭代わりにし、チョゴリ(民族服)の代用には当時の女中さんが着ていた割烹着を借りてつける。すべて目の前にあるものを使う。これでアリランを謳いながら踊るのである。でっぷりとした体に似合わずしなやかに踊る。手つき、目線、身のこなしは素人に見えなかった。日本の統治下にあったころの朝鮮銀行に勤務していたときに覚えたというから、本場仕込みである。
このSさんは、豪放磊落じつにユーモラスであったため、お客さんからは絶大な人気があった。しかし、なぜか所長からは嫌われていた。理由は、お金にルーズであったからのようだ。
 

 沖縄観光が解禁になったとき、先陣を切ったのもSさんだったが現地キャバレーで失態を演じた。
 添乗員は、出先で現金支出を伴う場合もあるので、添乗金(小切手代わりのクーポン券を使えない場合に使う現金)を持って出かける。当時沖縄は、米国の統治下にあったから、円をドルに換えて出張した。かれはこのドル紙幣を酔った勢いで節分の豆撒きのようにホステスたちにぜんぶばらまいてしまったのだ。かれは、生まれて初めて手にしたドル紙幣が、紙くずに見えてしまったらしい。

 「類は友を呼ぶ」のか、かれの常連客のなかに、初代三遊亭金馬さんがいた。そんな縁で何度か金馬師匠宅へ切符を届けに行った思い出がある。Sさんは欠点もあったが、お客に対するサービス精神は、並外れたプロフェッショナル。職人中の職人であった。
 

 笑うに笑えない間抜けな添乗員もいた。大学を出てまもない男なのだが気の毒に禿頭、一見50代に見えるところからニックネームが「お父ちゃん」という名の同僚のはなし。かれの性格はじれったくなるほど実にのんびりしていた。 
 まだ、新幹線が開通していない時代。東京駅から特急で京都に行く団体があった。その日の添乗員は、お父ちゃんである。10時ころになって、出かけたはずのお父ちゃんが、5リッター入りのヤカンをぶら下げて営業所にやってきた。ヤカンを下げてきた? 不思議に思うかもしれないが、当時の添乗員はこんなものを持ち歩いていたのだ。車中でお茶をサービスするための必需品だったのである。
「あれっ、今日は旅行中止?」
 出勤していた所員一同は怪訝な顔でかれを迎えた。次の答えに仰天する。
「あのね、ぼくが最後に乗車しようとしたら、扉が閉まって発車しちゃったんです」
「バカモン!お客の後を追わず帰って来るとは、何事か!」 
上司はカンカンに怒った。
「だって次の特急に乗っても追いつくはずがないから・・・」
他人ごとのようにのんびりという。 
 

 添乗員は、このような突発事故や事件は絶えずつきまとう。その都度、一人で解決せねばならない。当時は携帯電話はない。この場合の対処方法は、①鉄道電話(鉄道会社だけの専用電話)を使い、つぎの停車駅に連絡をいれて駅員にコトの次第をツアーの幹事に伝えてもらうようお願いする。つぎに、②現地京都の自社営業所に予定コースを伝え自分が次の特急で着くまでカバーしてくれるよう連絡を入れる、のだが・・・。お父ちゃんは、機転が利かなかったのである。このように添乗員の適性から外れていた人もいたのである。対人能力、問題解決能力のない者は自然淘汰されてゆく。

まだ、山のように話すことはあるが、そろそろ近頃の添乗員について書こう。
 

 わたしのころと、今の決定的な違いは職人的添乗員がいなくなったこと。言い換えると顧客と添乗員の間に距離があることだ。すべてが事務的になった。その原因は、団体旅行が分業化されてしまったからだとおもう。
 お客さんの要望をききながらコースを作って販売した旅行代理店の社員が添乗するのではなく、添乗業務は別会社に外注委託で実施されている。このことを意外に知らない人がいる。団体の目印によく使う旗は旅行代理店のマーク入りでも、案内人は別の添乗専門会社に雇われた派遣社員がほとんどだ。現在添乗員になるには、社団法人日本添乗サービス協会などが認定する「旅行管理主任者」になる必要がある。だから添乗専門会社にはそれなりのノウハウがあり研修が施されているからそれでいいのかもしれない。が、旅行代理店の社員が案内しないので、トラブルが起きた場合の責任の所在がうやむやになる。また、顧客の生の声が元請け会社(販売代理店)に伝わりにくいという欠点がある。
 

 つぎに自分の体験を述べる。
 旅行会社を辞め数年たってから、ある団体の新潟佐渡観光に招待された時のこと。船中で中年の添乗員と二人で雑談をした。そのうちかれは「じつはわたし、佐渡は初めてなんです」という。「じゃ、教えるよ」などと話しているうち、かれは正直者なのか「昨日まで、土木作業員をしておりました」と言う。それはべつに驚かなかったが、たまたま台風が佐渡に接近してきて、二日後の帰路は欠航になるかもしれない、という状況になった。かれはこの対処方法が全く分からず、おろおろし始めた。しかたなく客であるこちらが仕切って、急場をしのいだ。 
 

 また、別の日、大手旅行会社が主催する「日光霧降高原赤薙山登山ツアー」に参加した時の添乗員にも驚いた。頂上に着いてまもなく、天候があやしくなった。山の天気は変わりやすい。合羽に着替える間もなく、大粒の雨とともに落雷が大音響を立てた。山での落雷は、天空からではなく、身の丈レベルで横走りする恐ろしさがある。そんなとき添乗員の姿が見えなくなったのだ。40数人の参加者は恐怖におびえながらばらばらになって下りのリフト乗り場に急いだ。  
 乗り場に着いたとき、先に着いていた仲間の一人が大声で言った。
「添乗員がおれたちを置いて“いの一番”でリフトに乗って降りちゃったよ」
これには仰天。無責任極まりない行動をとったのだ。出発時から登山の基本的な説明がなっていなかった。説きつめると、山歩きの素人だった。

 すべてがこうではないだろうが、このようなケースがよくあるのである。旅行終了間際に渡されるアンケート用紙に不満を書いても、その添乗員が握りつぶしてしまえば元請けの旅行代理店には届かない。
 行き先が初めての添乗でも昔と違っていまは楽だ。全国各地の観光地マニュアルソフトが完備されていて、パソコンのボタン操作一つで知ることができる。マニュアルがない零細企業でもインターネットで検索すれば大概なことはわかる時代である。しかし、お客さんのハートを掴みサービス精神旺盛な職人的添乗員は、少なくなったような気がしてならない。[サッカー]

 [意訳]
1、ヒラメ人間:ヒラメと同じで目が上にしか向いていない。上司にゴマをすり、部下をいびるタイプの人間。

後記:自身の健康悪化に加え、親族や恩人の病などが重なり、書きかけのblogをそのままにしていました。多くの友人から、「続きを書いて!」と電話やメールでのリクエストをいただき、なんとかここに完成させました。

※次回は、近頃タイで捕まった厚生年金基金を使い込んだ男のニュースで思い出した「阿波踊りの宴」について書きます。

 
 


タグ:紀行文
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谷津ひろし

体調厳しい中、ブログを有難う。

 何処の組織にも色々な人がいますね・・・
人間社会の縮図を見るようでした。
 大変勉強になりました。

最近の添乗員は車内、ツアー中、名産物品等の販売、
 立ち寄るお店の売り上げ促進が特に重点になっているようですね。

by 谷津ひろし (2013-11-25 20:50) 

セイミー

ご訪問いただき有難うございます526040
by セイミー (2013-11-25 22:56) 

チョビ(H.YAOITA)

体調の悪い中、ありがとうございます

何もない時はいいんですが
トラブルが起きたときなんですよね
リーダーになってくれない添乗員さんだと困ります

団体旅行のバスがちょっとぶつかったときがあって
そのとき添乗員さんが何もしなかったんです
普通
・名簿を持って全員のケガの有無を確認
・その情報を持って警察、病院と連絡
してくれそうなものなんすが
腕を組んでお客さんと一緒に愚痴とか文句とか言ってるだけで・・・
警察官が情報を集めるのにすごく時間がかかって嫌な感じでした
by チョビ(H.YAOITA) (2013-11-26 00:30) 

yoko-minato

添乗員さんの悲喜こもごもを読ませていただいて
ご苦労も多かったと思います。
それでもそんな添乗員さんとともに旅に出たら
楽しいでしょうね。
お体が第一です、どうぞご自愛くださいね。
by yoko-minato (2013-11-26 06:16) 

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